コラム

本居宣長は愚かな民族思想家か

2019/06/27

本居宣長は「愚かな民族思想に到達した巨匠」であると書いたのは文芸評論家の吉本隆明(小林秀雄について)で、この言葉を真に受けている人や吉本が言わずともそんなことは知っていると主張する人がごまんといる。
果たして「愚かな民族思想」とは何を指しているのか、そう問われればなんと答えるのだろうか。その方がよほど興味があるのだが、五十歩百歩の言説が五十年も続いている今日、本居宣長の直毘霊や馭戎慨言、玉くしげを読んでのことだろうかとも思うが、読まずに思い込みというのも入れても「ごまん」にはならないのが現実である。それほど読まれてはいないだろうから。
直毘霊にある「大神」「道」の真意を明治維新の発想と重ねると、なるほど「愚か」ともいいたくなるかもしれないが、本居宣長は古事記研究の道を啓いた最初の人であり、上古の人になりきって古事記を読み解こうとした学者だ。同じように現代の人が宣長になりきって宣長の直毘霊を読もうとしているだろうか。それをせぬまま、「愚か」な戦争に負けたこの国の学者、識者と自認する人たちがわかったふうに堂々と批判できる世の中が悪くはないなら、その仕儀を浅はかなと誹るのも自由だろう。
さて、このようなひねくれたことを互いに言い募っては、ながながと夜も更け、明けの明星が見える刻まで互いに膝詰めあって話したところで(朝まで生テレビみたいな)わかりあえることはない。何の折り合いもつかない疲労のあとに、何が残るのか。しかし、気弱になっている場合ではない。本居宣長も大神も道も、なにもかも悪党にいいように使われた語句であるがために、日本人は西欧思想に走るしかなかったのだ。それをもうそろそろ飽き飽きとしてもいいのではないだろうか。資本主義社会は終末期さえとうに過ぎてゾンビ化しているのだから。
昨年流行った縄文より、今は上古を偲ぶ!というのが流行らないかと密かに期待していたが、流行ほど浅いものもない。川底の重い石はそのまま気づかれることはなく、小石や砂をさらっていくだけである。新しがり屋の令和ブームは新皇后を手のひら返しでもてはやしただけで、天皇即位の意味を問い直すこともないまま終わりそうである。
弊社が3月に刊行した〈天皇のお仕事本〉とキャッチコピーをつけてもよさそうな「神教経」は、地道に読者に届き続けているようではあるが、これまた「難しくてわからない」という評価もいただく。わからないはつまり面白くないということと受け止める。編集者の責任である。したがって、「神教経」の絵本化を目下、企み中である。
誰か扶け人はいないものか。

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