コラム

文学散歩〜中島 敦 展—「魅せられた旅人の短い生涯」

2019/10/21

「魅せられた旅人の短い生涯」とタイトルした中島敦展が横浜市元町の港の見える丘公園に隣接した神奈川県立近代文学館で開催中なので、平日に行ってみた。少し肌寒い曇り空、園内のバラの香りが風にのり漂っていた。静かでよかった。

本展の編集委員、池澤夏樹は「知識人の家系に生まれて漢学と英語を自在にこなし、それを主翼として世界文学の世界をはるかに遠くまで飛行した。エンジンとなったのは想像力。南洋諸島も古代中国もアッシリアも彼の脳内では自宅の庭のようなもの。私的な領域をやすやすと逃れて彼が構築したのは、人間の普遍を目指す新しい文学だった。」と書いている。展示は、家系、家族、誕生、成長、教員時代、そして文学の開花と南洋生活が、生原稿とともに時系列でわかるようになっている。短い生涯とはいえなにか終始熱を帯びた、かつ乾ききってせっぱつまった、冷たい熱のせいでもあるような、存在の気迫を感じないではいられない空間だった。

中島敦の作品で多くの人に読まれ記憶されているのは教科書に載っている有名な「山月記」だろう。物語は古代中国、ある官吏が道中の山のなかで人喰い虎に遭遇する、しかし虎は彼を襲わず薮に姿を隠す、なんとなれば虎は行方知れずの懐かしい友の変わり果てた姿なのだったという話である。作者の名は覚えていなくても、ああと思い出されるだろう。変身譚といえばカフカだが「日本の文学者でカフカを読んだのは中島敦が最初(原語で)」と森敦から聞いたと、日野啓三が「文学という恩寵」(中島敦全集3あとがき)の中でふれている。森敦もまた「月山」「われ逝くもののごとく」など独特な秀れた作品がある。中島と同じ京城(現ソウル)中学の後輩だ。だからといって日野啓三は山月記をカフカの影響という見方はしておらず、「個物の豊かさを信じられなくなった時代の、同質の感受性のあらわれだろう」としている。そして学生時代を日本の植民地である朝鮮で過ごした体験が中島敦の脱日本的な、一個の人としての自己を凝視する意識を培ったのではないかという。日野啓三もまた旧満州大連と行き来して若き日を過ごした経験を持ち「実によくわかる」からである。

作品は習作時代を含めてたった5年間のもので、特に亡くなる寸前の一年弱の期間に文字通り命を削るように書いている。「古譚」として短編四(狐憑、木乃伊、山月記、文字禍)、伯父を書いた「斗南先生」、「虎狩」、「光と風と夢」「南島譚」「環礁」「過去帳」(かめれおん日記、狼疾記)「わが最遊記」(悟浄出世、悟浄歎異)中国古典に材を得た「弟子」「李陵」「名人伝」、「章魚木の下で」、他に歌稿、漢詩、訳詩、遺稿「北方北」、書簡も多数。これらは世界各国語に翻訳され、愛読されている。また倉橋由美子、円城塔など現代作家や映画作家などクリエイターにインスピレーションを与えリスペクトされ新たな創作の種となっている。

池澤夏樹の紹介文にいう生まれ持った恵まれた環境と幼少時より賢かったという才能はその通りだが、その知的環境のみを見て恵まれていたといえるかどうか、複雑である。中島敦の文学を形作った最も重要な資質は、その孤独な魂にあったと言えるのではないだろうか。純粋を求めるゆえの孤独である。俗世の価値に相容れず、小さな作庭を楽しんだ作家は、肉体的未来を諦めた代償に一瞬を透徹し永遠を掴みとる眼を得ていく。若き日には朝鮮で統治される側とする側の両方の視線から問題意識(巡査の居る風景)を持ち自らの境涯を考え、また南洋諸島勤務時代を「章魚木の島で暮らしていた時、戦争と文学を可笑しいほど截然と区別していたのは「自分が何か実際の役に立ちたい願い」と「文学をポスター的実用にしたくない気持」とが頑固に対立していたからであった」と振り返っている。時流に疎い自分を南洋呆けと言いつつ、中島敦にとっての文学は代用品にして汚されてはならない聖域なのであった。日野啓三は中島敦を宮沢賢治と並べて「近代日本の最も大切な親しい文学者である」と評し、その作品を「この宇宙と人間精神の純粋結晶としての詩魂(ポエジー)の、稀なる顕現」と言った。詩魂が存在として現れていたような人ではなかったかと思う。これは時代を超えるというより、いつ読んでも新しさを感じさせてくれる確かな普遍性、人間の真実を追求した作品であると思う。

遠くて展覧会に行けない人は、書店あるいは図書館へどうぞお運びください。

会期は9月28日(土)〜11月24日(日)開催

 

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