ロングセラーになっている長田弘の詩集「一日の終わりの詩集」(みすず書房刊 初版2000年)に収められた章−マイ・オールドメン−が面白い。オールドメンの面々は五人の明治の文豪たちで、斎藤緑雨(1868年〜1904年)、幸田露伴(1867年〜1947年)、森鴎外(1862年〜1922年)、二葉亭四迷(1864年〜1909年)、夏目漱石(1867年〜1916年)である。詩人が亡き芸術家(音楽家、画家、小説家、そして詩人など)に寄せて書いた詩や文章は多いけれどこれは一味違っていて、とてもいい味。ちょっとだけ紹介したい。
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露伴先生いわく
(前数行略)
俗にいう運不運は、じつは幸福不幸福のことである。
幸福つまり幸せであるというが、それもちがうネ。
幸福は、じつは福である。福というのは、ソレ
自前手製のもの。忌憚なく言えば、愛です。
人の世の味わいは、愛の多少による。
花のゆたかに咲いているのも蝶の
軽く舞うのも、愛のすがただ。
何をもって貴しとするか。
ナニ人生はそれだけサ。
一人の夢は何でできているか?
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全部載せるわけにはいかないので、ぜひ書店でお求めください。緑雨のふふん もいいですヨ。余談だが、知人が貰った子猫に福と名づけて溺愛している。福とはまあ古風な名前をつけたもんだと思っていたが、ふくふくと日々明け暮れしていると聞いた。なるほど彼ら夫婦の手中に新しい愛がころがりこんできたということネ、羨ましいかぎり。
さて弊社は「人の心に沁み透る本を届けたい」を信条としており、七世紀の古伝書を解説した本から現代詩集、写真集と、ジャンルにとらわれずに刊行している。まだ数えられるほどの刊行数だが、今のところ節操がないと言われたことはない。読んでいただければわかるが、この本たちに共通するのは一口にいえば「愛」について書かれていることだ。露伴先生は福を愛と言ったと長田弘は書いている。そう、愛は命だとわたしは思い、命を愛おしむことが福なのだろうと思う。
愛は、頑なに閉じた心をも揺さぶり、喜びばかりではなくある時は悲しみの貌をしている。そして、さまざまな貌で表われた愛は、作者の幸福不幸福としてその人生を左右し、それが作品に結実されている。そこに書かれた福が読む人の胸に沁み透り、明日一日をまた生きよう、立って歩こうという力を与え、あるいは迷いを洗い流す涙となってくれる。そのような作品を送り出すことに努めてきた。
3月の新刊はコロナ感染防止対策として販促イベントが軒並み中止となり多難な出発となったが、現在、予想以上の手応えを得ている。そこにある愛が届いたということかと、とりあえず安堵した。本は手に取って開いてもらわなくてはならないので、出だしの販促が限られてしまうのは残念なのだが、急がず、これからゆっくりと伝わり、誰かの手に渡っていけばいいと思っている。
明治の文豪といえば、つけ加えておきたいのが明治元年生まれの徳富蘆花だ。2017年秋に刊行した詩集「トメアスの月」の著者 津留清美氏は、蘆花を顕彰する活動(熊本蘆花の会)を長く続けておられ、蘆花に関する多くの文章を発表されている(これも詩人と文豪のとりあわせ、興味深い内容ですヨ)。
「トメアスの月」は、苦難と辛苦の歳月を生きねばならなかった人、虐げられた人、迷える人に寄せた愛の詩である。その中の一つを目にして感動し、どうしても出版したく頼みこんで刊行の運びとなったことはすでに書いた。硬質な言葉で絞り出すように書かれた詩は、現在の逼塞した時こそ手にとって読みかえしていただきたく思う。そしてもう一冊の詩集、同じく津留氏の編集による藤子じんしろう氏の詩集「雨野では」を読むと、ふらりと散歩に出たくなる。ちょっとそこまで旅の気分で。
一日のほんのひと時を、静かに本の世界で心を休められますように。
みなさまのご無事と安寧をお祈り申し上げます。